2016街路樹サミット in 立川
1月9日、東京都立川になる国営昭和記念公園で開催され『2016街路樹サミットin立川』に参加させて頂きました。
昭和30〜40年代、日本全国で一斉に植えられた街路樹が、今、私たち人間社会と同じように老齢化問題に直面しています。都市における緑の文化「街路樹」が美しく生き生きするためには何が必要なのか。街路樹を愛する人、街路樹に興味も関心もない人、造園業者も行政も、全ての人たちが木の立場に立って考え話し合います。そんな趣旨の中、葉画家の群馬直美から開催主旨挨拶が始まりました。
『あなたにとって街路樹とはなんですか、そして、私にとって街路樹とはなんだろう・・・。それが知りたくて街路樹サミットを開催致しました。もっともっと街路樹と身近になって頂きたい、そんな思いで準備してきました。どうぞじっくりとお聞きください。』
第一部は秋田県の庭師の福岡徹さんと東京都江戸川区の江戸川環境財団の西野哲造さんの講演になります。福岡さんは、自ら地道に行政やマスコミにも働きかけ街路樹をぶつ切り剪定から自然樹形剪定へと変えていった方です。以前、国立市のさくら並木の問題の時に初めてお目にかかり、緑だけでなく人に対してもとてもあたたかくファンになってしまいました。
西野さんは30年間江戸川区の街路樹管理に携わった方です。実際に住民の苦情も聞いたり日常の管理や業者指導もされてきた人です。江戸川区は街路樹に対して最先端の考えをもっている行政だと思います。豪華二人の基調講演です。
[福岡徹さんのお話し]
福岡さんの住んでいるところは街路樹もないような山の中の谷の開けた小さな集落に住んでいます。冬の朝は除雪車がきて雪を寄せることから一日が始まります。雪かきはその日、早く起きた人から作業を始める。決まりはない『雪かきはお互い様だ。』隣の家の木の枝が自分家の敷地に伸びてくる、この景色が素晴らしい。景色を借りている。『これもお互い様だ。』自分の家にはおじいさんが植えた大きなケヤキががあります。秋になると落ち葉が落ちてくる。この落ち葉は道路にも落ちてきて、気付くと向かいのお母さんが落ち葉はきをしてくれる。そのお母さんは、『葉っぱは落ちるものだ。気にしないで』と言ってくれる。近所との雪かきや落ち葉はきはコミュニケーションがあるからお互い様が維持出来ている。小さな集落の例をあげてくれ、この『お互い様』、『お陰様』の心、このコミュニケーションが街中でもおこれば街路樹がみんなの大切なものと扱われ守っていくことができるのではないかと紹介してくれました。
ある時、隣の大きな町の街路樹のイチョウやプラタナスの木がぶつ切りにされているの知りました。木が木の形をしていない。その木は昔、この地域で大火事があり防火のために植えたのに火事になりやすい冬の時期にぶつ切りにされている。このぶつ切りがどんどん広まってくるとこの街の街路樹は壊滅するのではないかと思った。この時に我が街との合併協議がすすんでいて、このぶつ切りが我が街に入ってきたら大変だ。大きい街のやり方に負けてしまうかもしれないという危機感を感じて今の街路樹活動を始めたそうです。
市町村には美しい街路樹モデルを作らせて欲しいと協力を求めたり、街路樹の景観の写真展を開催したり、江戸川区や横浜市に街路樹の勉強をしに行き、得たものを地元の市町村に還元したり、公園を借りては剪定の実践勉強会を開いたりと啓蒙活動をしていったそうです。
そんな活動の中で、込み合ったイチョウの枝を一度に剪定しすぎた話しをしてくれました。その2ヶ月後には残った枝は垂れ下がり、大量の不定芽が発生してしまった。その頃、福岡さんの尊敬する茶庭師から「木は切られたいと思っていない」という言葉を聞き、しばらく挟みを持てなくなったそうです。茶庭師の手入れの極意は切ったことを感じさせないということ。切ったことが分からないということは木も切られたことを感じないので剪定前と同じように生きられる。木は切られたくないので木は切られると異変を起こします。異変を起こさないように手加減をし、切られたくない木に対して思いやりを持たなければならない。だから木が大きくなったからと言って単純にコンパクトにする剪定ではまた木が荒れてしまいます。切った直後は小さくなるけど、またすぐ徒長枝が出て荒れてしまいます。だから街路樹も茶庭でも個人の庭も公園の木も同じなんですね。
街路樹と自然は共通するところがたくさんある。自然の崖をイメージして街路樹でも伸ばせる方に枝を伸ばしていく、自然をお手本にすれば街路樹にも活かせていける。個人の庭でも隣地には中々伸ばせないところは隣地側は剪定して敷地内側に伸ばしていくように管理していく。庭も街路樹も自然も同じものだという考え方であり、街路樹の越境部分の管理の仕方も十分に対策があります。
福岡さんからの最後のメッセージ。人と街路樹がどんなふうに共生していったらいいのか。日本一の根廻りを持つケヤキの木はいつしかご神木になった話しを例にあげ、そのケヤキは村を守ってもらう木だから大切にされてきた。
木は人を守るため、守ってもらう為に植える。その効果を発揮してもらうために人も木を大事にしてあげないといけない。木と共生するためには、木は人を守ってもらうから人も木を守ってあげないといけないということ。
これも、『お互い様』、『お陰様』ということでしょうか。なんとも心にしみる言葉です。
福岡造園さんのサイト
[西野哲造さんのお話し]
江戸川区の江戸川環境財団の西野哲造さんの話しになります。
江戸川区は街路樹において最先端の取組みをしている自治体だと思います。まずは、街路樹についてどういう問題があるのか、街路樹は本来どうあるべきなのかということに対して適正化調査を行い、「街路樹のあり方検討委員会」を発足し街路樹をより質の高いものにするため江戸川区街路樹指針「新しい街路樹デザイン」を作成しています。これは、素晴らしい内容です。街路樹植栽の計画から維持管理、情報発信に至る区独自の運営方針をまとめたものであります。是非、ご覧頂きたく思います。内容の一つをあげると、街路樹の目標樹形を設定していく。育成タイプ、維持タイプ、更新タイプなどと判断していく。そうすれば行政の担当者が変わっても誰が担当しても変わらない指導ができてきます。
樹木の管理については業者に委託しています。そうすると、苦情などに対してもスピーディーに対応できてくると言います。その業者への発注の仕方はプロポーザル方式で業者を決めるということ。入札だと一番安い業者で決まります。業者側からこういうことをやりたいと提案して金額と合せて総合的に業者を決めていくといいます。検査は毎月行い、評定によって、優良と認められた業者には次年度も管理委託されるということです。評定結果を見ていくと金額が高くても総合的には評定が高かったり、逆に金額が安くても総合評定が悪い業者もあります。要は、金額が全てではない中身が大切だということで、業者も行政もそのために必死に勉強しますよね。
そして、街路樹剪定講習会を定期的に開いています。これが、江戸川区の街路樹のあり方大きく変えたところかなと西野さんは話します。行政を含めて各業者を集めて実際に剪定してもらう。その中でどの木の剪定がいいのか話合い、行政だけでなく業者も含めて話し合ったことがいいところだと言います。
最後に言います。住民、行政、業者がそれぞれの役割を果たせばいいのではないか。住民の方も街路樹は共有物という意識を持てばいい。自分たちのものだと意識すれば文句も言えないし協力体制がとれる。行政は技術力UP、人員体制、適正予算をとるようにする。業者は現場に合せた提案をしてもらう。そうすれば、良い街路樹が作れてくるのではないでしょうかと話してくれました。
住民も行政も業者もまずは意識の問題というところでしょうか。意識が変われば良い方向へと移行していくということが江戸川区を見れば分かりますね。
江戸川区の街路樹サイト
[第二部 パネルディスカッション]
第二部の始まりです。第二部は、福岡さんと西野さんに加え、埼玉県の久喜市議会議員時代に全国で初めて街路樹管理条例を市議会に提案し可決させた埼玉県会議員の石川忠義さんと、フリーとして木や自然のことなどを伝える冊子Lettersの編集者でもある大竹美緒子さんと、富山県で福岡さん同様に街路樹の啓発活動を行っている新樹造園の河合耕一さんのパネラー5人と隔月刊誌『庭』の前編集長の豊藏均さんの司会進行でパネルディスカッションになります。このディスカッションでは様々なことが話されました。いくつかご紹介致します。
街になぜ木を植えるのか?!
街路樹はなぜ、ブツ切りされてしまうのか?!というのは、街路樹の恩恵というのが知られていないことがある。例をあげると街路樹があることによって、騒音を葉っぱが吸収してくれる。排気ガスを葉っぱが吸着してくれる。緑陰を造ってくれるのと蒸散作用によって天然のエアコン機能がある。交差点などで街路樹があれば車が見え隠れし動く物体として捉え、事故が減る。などのメリットが考えられます。このような街路樹の効果を丁寧に説明する人がいないから落葉が大変だから切ってしまえということがおこってくるのだと思う。
電柱のようにぶつ切りされている街路樹を見て違和感を感じていた。それが当たり前になっていることで息苦しさを感じていた。ある時、きれいに黄葉しているイチョウの木がブツ切りされてしまった。子供になんできれいなのに切ってしまうの?なんで、この木は腕がないの?という問いかけに人として答えが見つからない。
伸び伸びと生きることが許されない木を自分の子供だと考えると・・・。どう見ても健全ではない姿の街路樹を見て違和感など何も感じない、こういう風景が当たり前になってしまっていることがおかしい。行政にはクレームしか届いていないのかも、しかし、大切に思っている市民もいる。このことを伝え、広めていきたい。街路樹はその街の人の心の鏡だと思う。美しい風景のところには心豊な人がいる。木は木らしく、その人はその人らしく生き生きと生活できる環境になってほしい。邪魔だから排除するという考えではおかしいのではないでしょうか。
埼玉県久喜市の話しです。条例までつくって街路樹を守ろうとしているのはなぜか?それは、街路樹を生き生きとさせたい、自然環境の一部として捉えたいという思いから条例を提案しました。市に改善提案をしたけど道路構造令の法律によって中々動いてくれない。また、虫が出たという苦情、そして虫駆除のための農薬散布の苦情など、クレームがクレームを生む悪循環の管理、対応があった。これを変えるには条例をつくらなければかわらないと思い、条例提案をした。条例施行後は自然環境の一部としてということを入れたので、新規に街路樹をつくる場合には一つの樹種だけでなく色々な樹種を混ぜなければならない。また、無闇に枝を剪定できなくなり、街路樹環境の改善の方向へ向かっていきました。しかし、条例を造ったけど、欠けているのがあります。それは啓発です。自然環境の一部といれたけどまだまだ、道路の構造物の一部として考えられてしまっている。街路樹はこういうものだよと丁寧に説明していかないといけない。また、高齢者の単身の人で中々落葉掃きができない人もいます。そういう人をフォローしながら街路樹というものを啓発していかないといけない。
沿道の人たちは落葉掃除が大変だという意見があがったことがあった。それに対して行政と剪定管理する業者はどう剪定をしたらいいのかとその人たちに尋ねていた。そうではなく、造園の立場の人だからこそ、この街にはどういう景観が必要でどういう街路樹の姿が必要だという提案をし理解を求める必要があるのではないか。落葉の苦情に合せていたら木はなくなってしまう。街路樹は市民の共有財産なのでみんなで守っていかなければならない。直下の人だけに任せてはいけないと思う。なぜ、街に木を植えるのか、庭に木を植えるのと同じ。庭は家族のために植える。だから街の木は街の人のために植える。自分たちのものだという思いでみんなで守っていかなければなりませんね。
約3時間半の街路樹サミットが幕を閉じました。
今回のサミットの中では、意識の問題という話しが何度がでてきました。おかしいことが当たり前になってしまっていること。おかしいことに気付かなくなってきているんですよね。
最近、山の人や山のことに触れ合うことも多くなっていきました。掛川市の時ノ寿の森では荒れてきた山林を10年間掛けて再生してきました。昨年末、私もそこで開催された静岡県の森林円卓会議に参加させて頂きましたが、この先10年どうしていくのかという話合いの中で思ったことは、やはり後継者育成、そして、森林の生態系維持と経済性成立の両立が問題なのかということです。10年間掛けて再生してきた団体がなくなったらまた山は荒廃していきます。荒廃すれば災害も起こりやすくなります。きれいな水も生まれません。山や木に人は生かされているということを感じなければならないと思うのです。また、きれいごとばかりでは山は成り立っていきません。そこにビジネスがあるかが大切ではないかと思うのです。木に対して価値があるかどうか、価値があれば高く取引され経済的にも成立されるのではないかと思うのです。価値をうむには木の良さを多くの人に知ってもらい共感してもらうことが大切だと思います。そのためには、伝えることが大切だということですね。山のことも街路樹のことも正しい知識や効能を伝えることが大切だと改めて感じました。そして、一番は子供の頃から木や山の自然環境に触れさせ自然に木のこと自然界の仕組みを知ってもらうことが早いのかなと感じます。そうすると、街路樹に対しても「葉っぱは落ちるもの」という言葉が自然ででてくるかもしれませんね。